どうも、さなぎです。
※DIALOGUE+Zeppツアー大阪公演のネタバレあり
ツアーが始まった。
首と肩が痛い。あと頭と耳も。
まあこれまで通り、
各々が出来ることをただ全力でやる
という意思がブレない限り、ステージに立っている人数や体制はあまり気にしていなかったんだけど、やっぱり8人いると見栄えが良い。
んで、今回は何の話をしようかってーと……
個人的にライブレポみたいな日記にはあまり興味がないし、復帰の話もまあ、、、
少ししようかなって感じだけど、とりあえずライブを見てて一番強く感じたことを優先して書くことにする。
それはセットリストが新境地であったこと。
具体的にいうと、今回のセットリストは
UNISON SQUARE GARDENではなくDIALOGUE+だった
という点に感動してしまった。
何を言ってるんだ、と思うかもしれないけど、これは本当にそうなんだよ。伝わって欲しい。
セットリストから本業を感じない(要素が少ない)、というのが僕にとっては凄く興味深いことだった。
勘違いしてほしくないのが、今までも強引に本業に当てはめていたわけではないし、例えるならば、同じ監督の別映画を見ているような感覚に近い印象があった。
シナリオ、演出、クライマックスの魅せ方などなど、作品が変わっても そのクリエイターの味を感じる部分というのは、みんなも経験があるのではないかい?
じゃあ具体的にどういった部分の話をしているのか、というのをザッと書いていこうと思う。
まず、前半公演の1曲目個人的予想は
セッション(長め)→ダイアローグ+インビテーション
であった。
ちなみに僕の信頼してるセトリ予想大好き変態マンの2人は両者とも2曲目にインビテーションを置いている。特に何の示し合わせもなしで。(本当に怖い)
つまり、本業に洗脳された3人が序盤の起爆剤に同じ曲を置いているという時点で、ファンの単純な願望やエゴの領域を超えた共通認識が存在する、ということを理解して欲しい。
では、どういった思考回路で行きついたかというと、僕の見解としては
今回のライブには明確な表題曲がない
という点に注目した。
僕は前回のpuzzle公演で「あやふわアスタリスクが1曲目に来る、命を賭ける」と豪語し、見事に的中させたわけで、その時の理由は表題曲にデネブとスピカがあったから。
超絶非常にシンプルな思考である。
※この時点で「なんでそうなるの?」って思ってる人は僕の過去ブログとか読まないとこれ以降の話に着いていけないと思う。
それを踏まえると、表題曲がない今回の場合、彼女たち自身を主人公に置くライブ、つまりは"存在証明"となる楽曲を序盤に置く絶好の機会なのではないか、という予想が立つ。
次に、彼の思考回路として、ワンマンライブという大事な舞台において、一曲目のビジョンや美学(エゴ)の通しやすさを考えると、
彼作曲のシングルかインビテーション
が置きやすいと、これまでのワンマンを見ていても分かっており……
そこに所謂オトナのジジョーとか彼自身の配慮があったか分からんけど、諸々削られて
インビテーション、しりとり、ぼくおろ、デネスピ
に絞られる。
「ぼくおろ」の再生回数を評価していた彼の発言や、「デネスピ」の立ち位置を考えると、この2曲は後半に置かれそうなので、残りの2択となり、今月まで回っていた本業ツアーの1曲目を考慮し、僕はインビテーションを選んだ。
(※本業ツアーでは、前ツアーのラストと今ツアーの1曲目が同じ)
結果として、
\スッスッスーパーデイ!スッスッスッスッススーパーデイ!/
という謎の自己紹介セッションから「おもいでしりとり」という、かつてない演出だった。
だから、自己紹介セッションという"存在証明"のあとにおもいでしりとりが始まった時に「なるほど、そういうことね」って笑っちゃったんだよね。
要は僕が今回言いたかったのは、こんな感じで
思考は分かるけど、こんな構成見たことない!
の連続だった、ってこと。
他にもカップリングを多めに構成し、アウトロを伸ばすことで無理に繋がず休憩させるところとか、新曲の切り方とかが新鮮だったし、特にデネスピとか大アンセムにしすぎててビビった。
でもアンコール初手にかすかでたしかを持ってくるのは「MMMツアーのアンコールとやり方が一緒だな」とか笑(分かる人には分かる)
美学と配慮を上手く融合させるという、総合Pとしての手腕が発揮された構成力に途中からめっちゃ感動しちゃったんよね。。。
あれ〜〜〜〜〜〜〜、ほぼ1曲目の話だけで1500文字ぐらい書いてるけど何これ。。
まあそんな感じで1曲目が流れた時の思考はおしまい。他の曲についてはまたどっかで喋ろうかな。
オマケでちょっと復帰のことも書くか〜
んー、
今日も彼女は1/8だったな、と思った。
あ、ハチブンノイチね。
僕は彼女のことばかり見ているけど、彼女が一番目立っている、と思ったことはない。
(変な意味じゃなくて)
彼女はいつだって献身的で、ただ皆と鳴らす音楽の一部として輝いているんだ ということを改めて感じた。
目の前で彼女が音楽の一部になってる瞬間を見るのが、こんなにも嬉しくて、幸せで。
上手前方で見ていたので、ステージ横で念入りに給水するところとか、気合い入れ直すところとかが見えて、そんな彼女を見るたびに、この時間の尊さを実感した。
腕を遠くに伸ばす意識や、指先がちょっと開き気味になるぐらいのしなやかさ、全く崩れない笑顔、ブレない身体、踊りながら目だけで会場を見渡す仕草、真っ直ぐ届く歌声。
ラストの大冒険で振りかぶって腕を投げ出すぐらい全部出し切れるのも、楽しさっていう原動力があってこそなのかな、とか。
なんていうか、最初から内山悠里菜だと思って見てるんじゃなくて、ステージ上の全ての動きがあって内山悠里菜だと認識する、みたいな。
これって根幹の部分がブレてないからこそだと思うし、会えた嬉しさことより、楽しかったが勝った所以でもあると思った。
本当に、良かったよ。
はい。まあこんなもんかな。
最後に余談だけど、僕は彼女への手紙に「見てるよ、聞いてるよって言い続けたい」と書いたことがある。
これは、極論ファンにはそれしかできないと思っているから。
だから、ラストの掻き回しが終わって、彼女が上手に来た時、拍手も指差しも出来ない僕はただ拳をグッと握って頷きながら両腕を横に伸ばした。
「やり切ったの見てたぞ」
って意味を込めて。
それを見た彼女は指も刺さず、口を閉じて、ただ大きく頷いた。
これでいいよね。
お互い目立つためにやってるわけじゃない。
ただ楽しくて、目の前のことに必死で、静かに、戦わずに、自分なりのやり方を進むだけの表現者と傍観者の共犯関係。
ずっと続きますように。
それでは、また。