どうも、さなぎです。
なんか去年のブログを読み返してたら、僕の好きなものに対する見解として
「少なくとも今、僕が好きだと思ってるから好き」
という表現をしていて、マジで今もその通りだな〜と思ったんだけども。
この1年で更に解像度の高い表現を見つけてしまったので共有するね。
ドュルルルル……
「なんか全部好き」
です。
辿り着いてしまった。
いやマジでこれに勝る表現はもう出てこないと思う。気取ってないんよ。本当に。
逆になんなの?あれか?「全部」なんて軽々しく言うなってか?全肯定は浅いってか?
はーん。じゃあ敢えて好きじゃないところもあるって言った方が健全ですか?なんで?信憑性ですか?そもそも好きに信憑性いりますか?
あびゃびゃびゃ〜ぴ〜〜や〜
あれ、これ本当に記念日に書いてるブログだよな……
まあ要は、なんていうのかな。
逆に根拠のない否定要素っていらなくない?って話ね。
もう変な気を遣ったり、誰かに認められるために綺麗な言葉並べたり、盲目的だという判定をケアしたりしなくていいからさ、もう好きなら好きでいいんじゃん!っていう。
だからさっき言った「なんか全部好き」はさ、他人に説明できないという説明が僕には出来るのね。つまり根拠があるの。
相手の一つ一つの行動が、いいねって思うんだよ。自分との価値観の違いも認められる。
まあそもそも違いと嫌いは同義じゃないけど。
全ての発言や行動に対して、なんで?って思わないのは、僕の中では勝手に理由が湧き出てくるからだし、自然と「わかるって思える」んだよ。
これはもう、好きでしょ。好きとしか言いようがない。
なんかさ、もう、なんかさ!
なんかもう…全部好きなんよ。
それで良くないか、ってかもうそれでしかない。許してくれよ。分かってくれよ。
もちろん、言語化を頑張る行為にメリットがある場合も存在すると思うし、ケースバイケースなのは自覚してる。
でも君にわかるように噛み砕いて説明をしたとして、それで伝わるのって結局一部だろ。
だったら、ちゃんと伝える時に言わなきゃいけないのは"全部"じゃん。
そう思っちゃうんだわ。
んー、まあそれでもさ、強いて言うなら
やっぱり「なんか」が大事なのかもしれない。
「なんか好き」「なんか追ってる」「なんか分かる」
これが一番核心的な理由としてあり続けているから、好きでいられるんだと思う。
この理由を「いいね」「すごいね」って言われる為にお外用に綺麗に包み込むことはいくらでも出来るけど、その行為は僕の好きな理由とは関係ないし。
まあ、そんな感じなのよ。
なんか好きになって、なんかずっと好きなまま5回目のお祝いになった。
これは奇跡なのかもしれないし、これまでずっと理解しようとしてきた結果なのかもしれない。
好きは理解。
分かった気になって、心の中の正直な部分がそれをジャッジして、好きって思い続ける。
それが寄り添うってことだし、そこに納得感や信憑性は必要ない。
好きのファッション的な理由はいらないんだよ。逆にどうして必要か説明できないでしょ、それ。
この考えを否定してもいいよ。
悲しくはあるけど。
諭したいわけでもないし、今更みんな価値観がひっくり返るような歳でもないでしょ。
別に僕は誰かに理解してほしくて好きでいるわけじゃないからね。
それに今、幸せに暮らせてるのは僕らだから。
それでは、また。