どうも、さなぎです。
ふと気付いたことがある。
というのも、僕がこのアカウントを作ってからずっと何かモヤモヤしていた事があったんだけど、最近その正体が分かった気がした。
それは
周りの人は「推しを応援している」けど、僕は「推しが好き」なだけ
ということだ。
例えば
ライブ中に掛け声を入れる、ラジオにお便りを送る、出演番組を見る、推しと同じものを買う、ツイートには即リプライを送る。などなど。。
挙げたらキリがないが、要はライブやイベントに行くこと以外のこういう"推しのため自分が何か運動をする"というのをよく目にする。
勿論僕もその気持ちは分かる。
ただ、それって「誰のため」と問われた時に僕は疑問を感じてしまった。
多分その人たちは「推しのため」と答えるだろう。
それでいいのだと思う。推しがそれを見て喜んでくれたら、という想い。
もう一つ思ったのが、果たしてそれは自分のためになっているのかということ。
これについても自分が望んでいるのであれば、仮に推しに対して直接的に関係があろうとなかろうと、自由にやればいいと思う。CDやグッズをめちゃ買って売り上げ貢献とかね。
じゃあ、それを他人に強要するのは?
他人に自分の価値観、もっと言うと"オタクとはこういうもの"と義務感を与えるのは?
はっきり言って僕は「嫌だな」って思った。
僕は本当に好きなものを「好き」って言うのが苦手だ。それを肯定して欲しいと言うつもりはないけど、例えば趣味を隠すことが悪いとか、逆に趣味をSNSで言いふらさないと「好き」である証明にならないとか、要はそういう何でも公言することの強制がスーパー嫌いなのだ。
だって、それをしたからって自分の中で何かが変わる訳じゃない。
僕の「好き」は誰に何を言われても揺るがないし、逆に何も言われなくても揺るぐことはない。
そもそも「推し」って言葉があんまり分からない。どっからどこまでの人がどういう意図で口にする言葉なんだ。ファンの定義もそう。人それぞれ。好きの定義も人それぞれ。曲が好き、顔が好き、声が好き、それとも雰囲気?
何か一つでも好きなら推し?
イベント行ったら?
回数?
金銭的、会社、学校の都合で行けない人は?
知識?必要最低限なのはどこからどこまで?
全部どうでも良い。
曖昧な定義では他人の好きは否定できないよ。それに気付かない人は何を目指す?
目分量で作った定規で大きさ測ってどっちが大きいだの適正だの言ってるんだぜ?
そういう真似事しないと「オタク」と呼ばれないなら別にそんな肩書き要らないし、「推し」と呼べないなら言わないだけ。
僕の好きは変わりません。
応援したけりゃ他人のことなんて気にせず思うがままにやればいいんだよ勝手にやってくれ僕も勝手に好きなコンテンツに尽くすからさ。
仮にその行為で推しが喜ぶと思うのであれば、そう思ってる人だけがやればいいんじゃないの。
喜ばすためにファンを続けるのは良いことだと思うよ。ただどういうことが喜ばすことになるのかも分からなくない?
ファンですって思ってることは喜びにはならない?理由は直接言って欲しいって言われたから従うだけ?
頼むから何でも従うこと、尽くすことが正義みたいな風潮やめてくれ。
肯定だけがファンの在り方じゃないよ。もし仮に誤った道を進みそうになったら、ちゃんと指摘するのもファンの役目なんじゃないの。その覚悟は本当にある?
大事なのは客観的な視点。自分から見ただけの歪んだ価値観じゃなくて。
そうそう。死ぬほど言ってるけど、この多様性溢れる世の中に常識なんて言葉はもう通用しないんだぜ。
それでも強いて言うなら、常識とは"はみ出してるやつがいる"って理解することぐらいかな。
伝わってる?
諦めてるけど、とりあえず断っておかないとね。僕はオタクじゃないです。いえーい。
アイムノットオタク。
それでは、また。