小物語

思ったことを無責任につらつらと。

AT翻訳

どうも、さなぎです。

 

なんかさりげなく月1の更新をやめていたけど、普通に忙しかったんだよ。

という言い訳から始めさせていただく、9月。

 

何の話をしようかな〜と考えるのも面倒だし、僕が友達とやっているラジオの話でもしようと思う。

これね。

水切りラジオ | Podcast on Spotify

 

「その時に思ったことを3人で語る」がテーマなので、"面白さ"という観点では当たり外れがあったりするのだけど、それなりに楽しくやっているので、気になる人は聞いてみてほしい。(無料だよ)

 

ラジオをやっていて思うのは、自分の発言に対しての"見られ方"を意識するようになった、ということだ。

もっと感覚的に言うと…より大人になった……みたいな感じかも。

あと、1人喋りとは違って、余りにも偏った思想はしっかりと咎められる。これも結構大事なことで。

 

要は、確かなアウトプットをするには確かなインプットや、ちゃんと加工する技術も必要だよねって痛感するし、そんな至極当然の作業を貴方は本当にやれてますか?って脅迫されてる気分になる。

最高。

 

それに、このアウトプットは他人から肯定されることを気持ち良く感じるアレではなくて、僕の中で完結する一種のゲームみたいな話なんだよな。

 

他人から肯定される、花丸もらえる、いいねがつく、みたいなことで感じる気持ち良さ、いわゆる承認欲求は無いわけじゃないけど、多いわけでもないし。

(無いって言ったら、それはそれでカッコつけてる感じして嫌じゃんね。)

 

そんで、さっきの"見られ方"を考えた時に

「一人に肯定されること」と「一人に否定されること」

のウェイトをどう置くか、という話になってきて。

 

結論、僕は基本的に後者をケアしたくなる傾向にある。

他人から「そうだよね!」と言われる快感より、他人を不快にしないことに注力したいって感じ。

 

だから、他人から見たら"当たり障りのない"、"刺激の少ない"発言が目立つのではないか、と自己分析してみる。

 

それに、

「そういう考え方もある」「考え方は人それぞれ」

という論に対しても、その主張で傷つく人のことはどう考慮するのかという命題は絶対に付き纏うし、

ウェイトをどう置くかは「それぞれ」だったとしても、もう片方を考えなくて良い…とはならないよな。

 

……とかね。

 

世の中は""多様性""がどうの言っているが、自分の個性を肯定しすぎるあまり他人の考慮が足りない理論は、むしろ自己中心的で多様な考えを否定してるのではないか、みたいな自己矛盾になるわけだし。

 

結論、最近の小物語において頻出すぎるワード

「人を人と思うこと」

に行き着いてしまう。

 

見えてる範囲の考慮なんて大体の人が出来てるわけで、それ以外の仮想人間はどう思うのかとか、そっちのがやってみる価値ある気がするんだよな。

 

仮想人間をザコ敵に設定して、自分のが正しいと気持ちよくなるより、同等の反対意見を持ってる人だったらどうしようとか考えるゲームのがおもろい。

マウントや論破とやらで君のレベル上がってんの?

 

対立構造をどう切り返すか、そっちのが発明チックで最高だよな〜〜みたいな。

 

そんなことを考えてラジオやってる。

SNSもそう。

 

アーティストも無敵のアイドルも運営も、その他大勢もみんな一人一人カテゴライズされた人間で、チューニングはなんと80億通りもある。

 

偉そうにするのも、何かをアピるのも君の勝手だけど、これからは80億人の目を見てやっていかなきゃいけない時代なんだよ。

 

そして僕と君の間には80億分の1の翻訳機が用意されている。ちゃんと活用するには相手の言葉を分かる努力が必要だし、そもそも「他人のことは分かるわけがない」って思うのは、、少し早くないか?

 

つーかマジで何でもすぐ否定的に「分からない」って言わないでよ。ただ君のデータセットにないだけだろ。

 

そんな"分からないこと"について沢山喋ってる水切りラジオをよろしく頼むぜ。

 

もっと対話がしたい。

 

それでは、また。