小物語

思ったことを無責任につらつらと。

ときめきを抱きしめたら

どうも、さなぎです。

 

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ゆりにゃーな気がしてたら3年経っちゃった!!!!!!!!

 

 

なんだ「ゆりにゃー」って。

 

うぃー。

 

別にノスタルジーでもセンチメンタルでもなく、単純に「3年も経ったのか!」という気持ちでこれを書き始めた。あ、これツアーのレポじゃないよ。

だから特に書くことは決めてねえ〜〜って感じなんだけども。

 

まあ……

一つ思うのは、いわゆる"推す"行為が未だに分かってないということ。(何回か話題に挙げてるけど、未だに分かってない)

 

そりゃ3年もTwitterでキャイキャイしてたら、周りからは推してると思われてるんだろうけど、当人は別にそんな自覚がないのである。

あと僕は「推してる」と言ったことないしね。

 

だってそれが何を示しているのか分からないんだもの。何をしたら、そう呼ぶの。

 

「人それぞれでいいんじゃないですか?」

 

って言われても、それつまり何も示してないですよね?って感じだ。うっせバーカバーカ。勘違い多様性バーカ。

 

そういう意味でいうと、彼女に"成功してほしい"と思ったことも、、ないかもしれない。

やりたいと思ったことをやればいいし、もし仮に失敗したとしても、それで良いと思っている。

(これを失敗して欲しいと捉える人がいたら三日ぐらい凹む)

 

大事なのはここで励ますかどうか、みたいなことなのかなと。

 

彼女は神じゃないし、画面の向こう側にいる架空の人物でもない。

 

だからきっと色々ある。

壁にぶつかったり、傷ついたり。

 

「大事だ」と思ってる人がそうなった時、僕はきっと励ますんだと思う。

 

要は、こんな感じのことを繰り返してきただけでさ。

 

なんつーか、全てをドラマチックな展開にするのは、やかましくないか?ってなるんだよな。

 

凄いと思ったら「凄かった!」って言うし、頑張ってたら褒めたくなるし、大変そうなら応援するし、貰ったら返したくなるし。

何も思わなかったら、何もしないし。

 

そこにあるのは、ただ「そう思ったから」という行動理由と、少しの配慮だけ。

 

こんな僕のナチュラルな感情を

"誰か" や "何か"

と比較する必要がどこにあるかを教えて欲しい。

 

 

"推す" という行為の"何かと比較してる感"がアレなのかもしれないね。

 

 

あ、あとはまあ、褒めたツイートをした時に

いいねされたくない

とかもそうね。

 

これも「褒めたい」というナチュラルな感情が他人から評価された瞬間にパッケージ化されちゃうような感覚になるから…かな。

 

別に君が認めなくても僕は「褒めたい」と思ってても良いわけで。

じゃあ何のために押される"いいね"なんだよってなる。

 

 

これ、なんか変かなぁ。

 

僕からするとさ、なんつーか。。

"推し派閥の方々"は、好きな人や好きなコンテンツを「自分がファンと呼ばれるために利用してる」ように見えちゃう時があるんだよね。

本当に「好き」を誰かに説明する必要があるのかな。

 

「成功してほしい」と思うのも、成功の定義は本人の中にしかないはずだし、じゃあそれってファンが定義した"ファンとしての成功"なのでは?とか。

(これを成功して欲しくないと捉える人がいたら更に三日ぐらい凹む)

 

周りが君をファンとして評価してくれてたとして、その周りが去ったら君はファンじゃなくなるのか?とか。

 

これは「人それぞれ」の愛し方がある、という話ではないのよね。もっと根本的な、他人の介入しない段階の話な気がする。

 

 

 

自分の本能を抱きしめたい。嘘つきたくない。

 

 

 

……つってもさ、まあ気持ちは分からんでもないし、最初に書いたけど、そりゃ僕は"推しがいるオタク"なんだと思うよ。

逆に分かってほしいとも思ってない。君は君の常識の中で生きてればいいよ。ほんとに。ほんとだよ。

 

 

だから僕の最大限の語彙を使って、一言だけ。

 

 

 

少なくとも今、僕が好きだと思ってるから好き。

 

 

 

 

いやぁ、今日も ゆりにゃーな気がしてるぜ。

 

それでは、また。