どうも、さなぎです。
テレビやネットでニュースを見ること。
SNSで拡散すること。
世の中で起こった事件を1つのコンテンツとして捉えることが当たり前になっている。情報社会において、事件というのは情報が目に見える形に変換されることと同じだ。
交通事故が起きた。ニュースで映像が流れた、事故の経緯が文章や声になった。
果たしてそこに感情は必要なのか?
言ってしまえば、現状は必要とされてはいない。
あったことをそのまま伝える、拡散する。それが当たり前になっている。だって、そうだろう。自分とは関係ないんだから。
非人道的な事件なんてよく聞くけど、それもそれで結局は報道するタイミングで"世の中で起きた非人道的な事件のうちの1つ"になって拡散される。
事実ならまだしても、憶測やらなんならで「〇〇だと思われます」って毎日お天気お姉さんが言ってる。
世の中そんなもんだ。
1%の被害者よりも99%の視聴者に伝えることのが大事。
これは紛うことなき正義。
何が言いたいかって、つまり「心無い報道や拡散はしょうがない」ってこと。
明日は我が身。明日、君の友人が良からぬニュースで取り上げられるかもしれない。何も知らないくせに全国民の悪役になるかもしれない。
普段何気なく見ているニュースが、一瞬にしてそうじゃなくなる。
この情報社会で生きている以上、そんな"事故"とは隣り合わせだ。
そして情報は何よりも価値が高い。争奪戦だ。その競争を好む者で世の中は溢れてる。何かやらかしたら見つからないことなんて絶対にないだろう。
そしたら餌を貰った動物のように面白がって子供から大人まで仲良くRTだ。
餌で大事なのは情報の鮮度と密度。これで味が決まる。肉を食べる時に犠牲になった牛や豚のことなんて考えないのと同じ、目の前の餌にしか興味がない。
これ、止められる?
無理でしょ。1%を救う手立てなんてどこにもない。
僕もおかしいとは思うよ。これまでだって散々「他人を叩くな」って文章にしてきた。でも何も変わらない。諦めるしかなかった。
みんな「自分の正義」を振りかざしてヒーロー気分だ。
それでも世界は廻ってる。自称ヒーローで溢れかえっていても。正義の反対が、違う正義だったとしても。
それに1%という例えで表した事件の被害者の気持ちなんて他人から見たら分からない。
もしかしたら被害者であるけど、そこまで気にしてないかもしれない。
分からない。もっと言うと、その1%を可哀想と思うことすらエゴなのかもしれない。
分からない。
だから巡り巡って
事実だけを報道する。
かもしれないね。
でも優しい人達のエゴはきっと被害者の救いになる。どうせ悲しんでるだろうから。
きっと、これもまた事実だろう。
まず「認めて」それから「普通にしろ」。
僕の好きな漫画のセリフ(前にも書いたね)。
それでは、また。